FUKUTA CHIEKO’s OPINION Vol.1
1967年、国連は「観光は平和へのパスポート」というスローガンを掲げた。半世紀が経った今、終わりの見えない外出自粛に、観光従事者の多くは経済的にも精神的にも追い込まれている。そして、技術革新に伴い、半世紀前には想像もつかなかったであろう「オンライン観光」なるものも出現した。
再度、観光とは何か、問うてみたいと思う。
司馬遼太郎著『21世紀を生きる君たちへ』という本はご存じだろうか。その中で、彼はこう話す。
…私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい…
優しさとは他者との交流の中で想像し「訓練」することで体得できるものだと彼は言う。
これを読み、私はすぐに観光地を想起し、その好条件にハッとした。それは、観光地は、様々な他者と数多く遭遇できる場であり、効率に囚われることがない空間であるためだ。
観光に訪れる人は、その地の人間、文化、産物、そして歴史…そういった「他者」と正面から接することができる。そこでの他者との交流により、他人の心に思いを寄せる機会を持つのだ。これは人間に対してのみならず、例えば職人さんがお茶碗を作っている工程を見ることで、そのお店においてあるお茶碗や、さらには家にある普段使っていたお茶碗に対してさえ、ある種の「心」を感じ、優しく接するようになるなど、物や土地に対しても同様のことが言えると思うのである。
また、観光に訪れるとき、人は効率化から逃れることができるはずだ。なぜならその時、人は生き抜くための効率が求められることはない。普段は体験することのない効率に支配されない世界では、他者に興味を持ち「痛かろう」と思いを寄せる余裕ができるのではないか。
しかしながら、昨今、観光地はその「訓練」の条件を持ち合わせているにも関わらず、痛かろうと寄り添いの言動で溢れているとは言い切れない。むしろ、多様な性質、目的を持った人間が居合わせる場所だからこそ、この条件がそのまま他者との隔たりを生む原因となる場合があるのだ。それを示唆するものとして、「観光公害」「オーバーツーリズム」という言葉がある。観光地が大量の観光客を吸収しきれず、様々な問題を抱えるようになった状態を指す。簡単かつリーズナブルな価格で観光ができるようになったために世界中で観光を楽しむ人が増えた一方で、観光地の崩壊が起きていると言われるようになった。観光地では、住民と観光客の間の関係性が悪化した例も散見される。
観光地が抱える問題を具体的に列挙すると、マナー問題、ゴミ問題、民泊問題、渋滞問題、賃上げ問題などがある。ここで、京都のゴミ問題に焦点を当てて考えてみる。それは、観光客がゴミを街にポイ捨てし、景観が損なわれたり、住民の生活を不快にしたりするという問題だ。以前、この問題が気になり、観光客にインタビューをしたことがある。その人はこう述べた。「近くにゴミ箱がないから」。そこでごみ箱がない理由を行政にヒアリングした。すると、「家の近くにゴミ箱を置きたくない住民が多いから」という答えが返ってきた。これは一例に過ぎないが、しかし事実として、ここに「痛かろう」の思考の跡がないことは確かであろう。結果として現れている観光客と住民の関係性の悪化は、「訓練」による他者理解ではなく、却って隔たりが大きくなっていることを示すのではないか。
無論、誰もが「痛かろう」を体得しに観光地に来ているわけではない。ある人は思い出作りに、ある人は余暇を楽しむために、観光地を訪れているのである。そこにあるのは大義ではなく、ただ一つ、楽しむための必死な姿だ。観光客は自身の楽しみを最大限享受するために行動し、観光従事者は観光客に楽しみを提供し金銭を得る。
しかし、観光地は、観光客も観光従事者も望む望まぬに関わらず、つまり、自ら「いたわり」を学びにきたわけでなくとも、本来的に「いたわり」の精神が求められる。観光地は、頻繁に異質の他者との衝突を繰り返し、その都度「いたわり」か「隔たり」かのどちらかを無意識に選択し、その結果「隔たり」の選択が増えると、先に述べたような観光地の崩壊を招いてしまうためである。
では、どのようにして、他者へ「隔たり」ではなく「いたわり」に変えることができるのだろうか。まだ世界で誰も確証を持ち得ていない大きな課題だ。
我々はその一助になれればと、「ツーリストシップ」の共有を行っている。観光者のあるべき姿の総称で、観光地での規範だ。観光客、観光従事者、住民、観光地に集う全ての人に、観光地ではいつもより寄り添ってみてほしいと提案している。「ごみのポイ捨てをしない」「マナー違反をしない」ということを、交流を通して可能な限り「いたわり」からアプローチしたい。いつもより、人に、モノに、地に、意識して「痛かろう」と寄り添うことで、優しさが生まれ、効率的ではないからこそ温かく快適な空間が生まれると考えている。また、スポーツマンシップのように、清い行動は苦しいものではなく、粋なものだという浸透に成功すれば、楽しさを求める延長線上に「いたわり」を存在させることができるだろう。
普段生活する効率化された社会においては、相手に寄り添うという面倒なコストは削減傾向にあるが、観光地ではそれが求められる。しかしそれは一方で、「観光地は交流を学ぶことができる場所」とも言い換えることができる。そして、それはすなわち「やさしさを体得できる場所」とでもなるのだろうか。ここまでは求めすぎかもしれない。しかし、観光産業には、それだけ壮大かつ内面的な人類の基盤が埋まっており、それを享受すべく働きかけたいと思うのである。
文化遺産を通して土地の歴史に思いを馳せ、工芸品に職人の心を感じ、異国人の仕草に驚く。半世紀前に「平和へのパスポート」と形容された観光は、今いっそう、磨きをかけてその価値を発揮せねばならないだろう。新型コロナウイルスがどれだけ猛威を振るおうと、守らねばならない大切な場だと私は主張したい。